よくある旧家からの〜類ではありませんが福岡黒田家ゆかりのある方の曽祖父がお持ちだった脇差とお聞きしています。曽祖父がこの脇差が外に出てしまうのを恐れて隠してしまっていたのか見つかったのがここ数年前だとお聞きしています。研ぎは差し込み研ぎ。
柄と鍔がボロボロの状態だったので柄と鍔は変えています。鞘とハバキは当時のものらしく時代を感じます。
ですので鞘とハバキは完全に当時の物です。
鍔のサイズが多少ズレがありますので少しガタツキは
あります。
私も刀は結構な数を持っていますが矢筈刃は
大変珍しくこの一振りしか見たことはありません。
越前国下坂、後に家康にお抱え鍛冶になり
越前康継と名乗る。
初代康継の出自は判然としないが、美濃国赤坂千手院派の後裔といわれる。近江国(滋賀県)長浜市下坂が生国で、初期作品では「越前国下坂」の銘を刻む。
慶長年間(1596年~)の初頭に越前に移り住み、越前北ノ荘藩主結城秀康(徳川家康次男)のお抱え鍛冶となったと伝わる。この秀康の推挙により、慶長10年か11年頃(1605-6年)(あるいはもっとくだって慶長18年(1613年)頃)、家康・秀忠に召されて江戸で鍛刀を命じられる。腕を認められて五十人扶持の士分待遇にあずかり、家康より「康」の字を賜って「康継」と改銘]。葵の御紋を作刀の茎に切ることを許された。ゆえに「御紋康継」、「葵下坂」と称される。越前と江戸に隔年交代の勤務を命じられている。
越前康継(えちぜんやすつぐ、初代:天文23年(1554年) - 元和7年9月9日(1621年10月23日))は安土桃山時代から江戸時代の越前国・武蔵国の刀工。下坂派の棟梁格で、名を相伝し幕末まで江戸幕府御用鍛冶を務めた家系である。
刃紋【矢筈刃】
(みだれば)の一種で、矢の末端に付く、弓の弦を受ける部位「矢筈」(やはず)を思わせる刃文のこと。特徴的な形状をしているため、鑑賞する際に他の刃文と比較して見付けやすい。
焼き入れの際に、温度の高低の具合によって生じる刃文で、温度によって箱乱刃(はこみだれば)になったり、矢筈刃になったりすると推測されている。
矢筈刃を焼いた刀工は、古刀であれば「長谷部国重」(はせべくにしげ)の子「長谷部国平」や、駿河国(現在の静岡県中部)で活躍した刀工「島田義助」(しまだぎすけ/よしすけ)。新刀であれば、戦国時代後期から江戸時代後期にかけて活躍した刀工【越前康継】(えちぜんやすつぐ)や、肥前国(現在の佐賀県、及び長崎県の一部)で活躍した刀工「肥前吉房」など複数存在する。
日刀保では康継とは極められませんでしたが
史料を見る限り康継の特徴が極めて当てはまります。
時代物ですのでノークレームでよろしくお願いします。
(2024年 11月 26日 10時 42分 追加)元幅2.9㍉ 元重4㍉ 先幅2.9㍉先重3㍉
よくある旧家からの〜類ではありませんが福岡黒田家ゆかりのある方の曽祖父がお持ちだった脇差とお聞きしています。曽祖父がこの脇差が外に出てしまうのを恐れて隠してしまっていたのか見つかったのがここ数年前だとお聞きしています。研ぎは差し込み研ぎ。
柄と鍔がボロボロの状態だったので柄と鍔は変えています。鞘とハバキは当時のものらしく時代を感じます。
ですので鞘とハバキは完全に当時の物です。
鍔のサイズが多少ズレがありますので少しガタツキは
あります。
私も刀は結構な数を持っていますが矢筈刃は
大変珍しくこの一振りしか見たことはありません。
越前国下坂、後に家康にお抱え鍛冶になり
越前康継と名乗る。
初代康継の出自は判然としないが、美濃国赤坂千手院派の後裔といわれる。近江国(滋賀県)長浜市下坂が生国で、初期作品では「越前国下坂」の銘を刻む。
慶長年間(1596年~)の初頭に越前に移り住み、越前北ノ荘藩主結城秀康(徳川家康次男)のお抱え鍛冶となったと伝わる。この秀康の推挙により、慶長10年か11年頃(1605-6年)(あるいはもっとくだって慶長18年(1613年)頃)、家康・秀忠に召されて江戸で鍛刀を命じられる。腕を認められて五十人扶持の士分待遇にあずかり、家康より「康」の字を賜って「康継」と改銘]。葵の御紋を作刀の茎に切ることを許された。ゆえに「御紋康継」、「葵下坂」と称される。越前と江戸に隔年交代の勤務を命じられている。
越前康継(えちぜんやすつぐ、初代:天文23年(1554年) - 元和7年9月9日(1621年10月23日))は安土桃山時代から江戸時代の越前国・武蔵国の刀工。下坂派の棟梁格で、名を相伝し幕末まで江戸幕府御用鍛冶を務めた家系である。
刃紋【矢筈刃】
(みだれば)の一種で、矢の末端に付く、弓の弦を受ける部位「矢筈」(やはず)を思わせる刃文のこと。特徴的な形状をしているため、鑑賞する際に他の刃文と比較して見付けやすい。
焼き入れの際に、温度の高低の具合によって生じる刃文で、温度によって箱乱刃(はこみだれば)になったり、矢筈刃になったりすると推測されている。
矢筈刃を焼いた刀工は、古刀であれば「長谷部国重」(はせべくにしげ)の子「長谷部国平」や、駿河国(現在の静岡県中部)で活躍した刀工「島田義助」(しまだぎすけ/よしすけ)。新刀であれば、戦国時代後期から江戸時代後期にかけて活躍した刀工【越前康継】(えちぜんやすつぐ)や、肥前国(現在の佐賀県、及び長崎県の一部)で活躍した刀工「肥前吉房」など複数存在する。
日刀保では康継とは極められませんでしたが
史料を見る限り康継の特徴が極めて当てはまります。
安価の場合出品を取り下げます。
時代物ですのでノークレームでよろしくお願いします。