編集部からのメッセージ
 本書は1983年から85年まで１年10ヶ月間，朝日新聞の連載小説として発表され，大きな反響を集めた後，1985年朝日新聞社から刊行され，86年大佛次郎賞を受賞．88年新潮文庫に収められました．
 1960年代後半，学園紛争の激しかった頃，中国戦線での従軍経験を持ち，謎の過去を持つ雪森厚夫と精神病院入院歴のある女子大生池端和香子はスケート場で知り合います．そして心に深い傷を負いつつ日々を過ごしている二人はいつしか愛し合うようになります．1969年１月，和香子はT大生の恋人守屋牧彦の影響で大学紛争に参加します．「過激派」リーダーの一人である牧彦はT大学を占拠する過程で，和香子の父・池端法学部教授の研究室を破壊し，やがて機動隊と闘い敗退していきます．
 精神の病に苦しみ薬物を乱用していた和香子は雪森厚夫にさらに心惹かれていきますが，二人が厚夫の故郷である北海道東部の湿原地帯を旅行した直後に，二人は69年２月の新幹線爆破事件の犯人として捕らわれるという予期せぬ事態が待ちかまえていました．守屋牧彦が恋人である池端和香子の知人として，戦争中機関銃中隊にいて爆発物に詳しく，趣味の狩猟のために火薬を自由に入手できる雪森を引き込んで，新幹線爆破を企てたというのが当局による事件の構図でした．
 見込み捜査する刑事，迎合的な供述をする周囲の人々，代用監獄の中に置かれた二人は冤罪の罠にはめられ，取調官の強要と誘導に抗うことができずに，事件への関与を「自白」していきます．公判の開始とともに，虚偽の自白を翻した雪森と和香子は，当局の作り出した事件の構図を壊すことがいかに困難であるかを痛感するのです．一審では雪森が死刑，和香子が無期判決を受け，二人の無罪を確信して爆破事件当日のアリバイ証明に献身する若き弁護士・阿久津の献身によって，事件が冤罪であることが徐々に明らかになりますが，二人が最終的に無罪を勝ち取るまでに極めて長き歳月が必要でした．
 国家の犯罪＝冤罪事件の構造と，そこに捲き込まれた者たちの苦しみ，長き歳月をかけての雪冤への道程が本書の縦軸として極めて重要な位置を占めています．とりわけ雪森と和香子が自らの冤罪を晴らし，その過程で人間の魂の救済と愛を求め続けたことを描ききったことが本書の最大の魅力となっています．

 一方，本書の横軸としては謎多き人物，雪森厚夫にとっての獄中生活の意味が描かれています．
 さまざまな時間や人間が交錯し合い，響き合って，現代社会を重層的多角的に描き出していますが，そこには著者の陸軍幼年学校での経験，東京拘置所医務部技官としての経験，精神科医であり大学教授であった経験が生かされていることはいうまでもありません．
 大佛次郎賞選考委員であった司馬遼太郎は本書について「カテドラルでも造営するように地下を深く掘りぬいた上で，地上に力学的な構造性をずっしりと見せてくれた」と評しています．
 「解説」では，亀山郁夫氏がドストエフスキー作品との関連で，この作品の意義について多角的に考察しています．
 本書のご一読を心よりお薦めする次第です．