”九谷論争“のおさらい“
古九谷は半世紀程前迄、石川県の焼き物、江戸時代の九谷焼と言われていました。
昭和20年代、
古九谷と呼ばれる焼き物が、実は佐賀県有田で作られたものではないか
という説が登場し、九谷説と有田説の論争が始まりました。
「九谷論争」です。
有田説は、江戸時代、海外へ輸出された伊万里の古九谷との共通性にありました。
有田説を支持する説が諸外国でも登場します。
その後、考古学的に生産地遺跡の発掘調査が双方で行われました。
素地の化学分析が行われた結果、有田説で終結しました。
終結後も古九谷の名称は残りました。
ただ、その後も調査は続いています。
疑問点がまだあり、今後の研究により更に詳細が解明されればと思います。
1640-1670年代の色絵伊万里が古九谷、染付の古九谷が藍九谷です。
色絵古九谷は日本初の色絵磁器、つまり...
1670年代以降の色絵磁器、柿右衛門以前の色絵伊万里なんです。
日本初の磁器、初期伊万里誕生からほんの30年程後に、
李朝の様な厚みのある初期伊万里から、
薄作りの中国磁器みたいな色絵や染付ができたなんて...
猛スピード成長を後押しをした人たちは誰?
政変により国を追われた中国磁器職人たちでした。
彼らは惜しみなく技術を伝え、改良を加えました。
1640年代、伊万里の急激な進歩は、
中国技術と日本人の高い学習能力の成果、だった様です。