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ごあいさつ
バルカン半島の東部、今日のブルガリアを中心とした広汎な地域 ラキア)に紀元前15世紀ころからトラキア人と呼ばれる勇壮な騎馬民族 が強大な勢力を誇っていたことは、ギリシア神話やホメロスの叙事詩な どを通じて知られていましたが、その実態は謎に包まれておりました。 第二次世界大戦後の発掘調査と学術的解明により、古代トラキア人は早 ※から独特の部族社会を形成、スキタイ、ギリシア、ベルシアなどの隣 接諸国と接触するとともに、極めて高度の文明を有していたことなどが わかり、神話の世界から人類史上に華やかに登場して来ました。
このように、古代トラキア文明が脚光を浴びつつある時に、ブルガリ 一人民共和国の格別のご好意により、同文明の全容を伝える『バルカン に輝く騎馬民族の遺宝――古代トラキア黄金展』がわが国で開催される ことは、誠に喜ばしいことであり、学術的にも極めて意義あることと確 信致します。また、わが国にはこれまで、中国、メソポタミア、エジプ トなどいわゆる農耕民族の文化遺産はしばしば紹介されて参りました が、馬を操り、「自由」を信条に活躍した騎馬民族のそれは、ほとんど 紹介されておらず、この意味からも本展は極めて画期的な催しといえま す。
本展は、トラキア人が未だこの地に現れない先史時代(紀元前6000年 紀)から、ローマの完全な支配下にはいる西暦3世紀までにトラキアの 地に開花した人類文明の成果を紹介するもので、ブルガリア国内25の国 立博物館の所蔵品から、黄金芸術を中心に美術的にも考古学的にも極め て価値の高い逸品560余点を厳選して、時代順に展覧致します。
この展覧会の開催を契機として、日本とブルガリア人民共和国との文 化交流が活発になり、両国の友好関係と相互理解が一層深まることを祈 念するとともに、本展実現のために、ご尽力いただきましたブルガリア 人民共和国政府の方々に深い感謝の意を表します。
昭和54年5月12日
中日新聞社
国際交流基金
トラキア民族の文化・美術展
アレクサンダー・フォル
この展覧会は数奇な道を歩んできたと言えよう。これはイワン・ヴェ ネディコフ氏により1972年に企画された。ところが、その後のブルガリ ア考古学者達の発掘調査によって、次々に新発見の遺物がコレクション に付け加えられたのである。こうして世界各地の美術館で紹介されるご とに、その内容は豊富となり成長してきたのである。
このコレクションは今もなお増え続けている。トラキア学の研究はプ ルガリア科学アカデミーのトラキア研究所を中心に行われている。今回 の展示も1972年に創設されたこの研究所の協力を受け、トラキア学の発 展を反映しているのである。トラキア学会は過去2回 (1972年ソフィア、 76年ブカレスト) 開かれ、第3回大会はオーストリア科学アカデミーの 協力のもと1980年にウィーンで開催される予定である。
トラキア人の遺した美術は世界の何百万もの人々とブルガリアを結び つける役割を果たしている。我国は解放後100年しか経ていない(ブル ガリアは露土戦争 [1877-78〕によりオットマン・トルコの支配から独 立した)が、歴史遺産の重要性をよく理解していることで知られている のである。1949年9月反ファシズム闘争に立ち上がり社会主義時代への 基礎をうちたてたブルガリア国民は、社会主義国家建設とともに、その 歴史遺産を守ることに関心を払ってきた。ブルガリア国民の意識におい ては、過去は現在・未来と不可分なのである。
このような意識のもとにブルガリア建国1300周年記念日を1981年に迎 えるのであり、この耀かしい祝典の準備にとりかかっているのである。
トラキア民族の起源
トラキア人は民族文化的に比較的良くまとまった部族社会を形成し、 カルバチア地方(ルーマニア)から、南はエーゲ海方面、すなわち古代 ギリシアの大陸部ばかりではなく、サモトラケ、タソス、レムノス、イ ンプロス、ナクソス、デロスといった島嶼部にも住んでいた。西ではア イリア人と接し、その境界線はダニューブ河の流域からテッサロニキ湾 にいたるまで続いており、丁度ティモク川とモラヴァ川の間、およびヴ ァルグル河とストルマ河の間あたりが境となっていた。黒海(古代名ポ ントゥス・エウクセイノス) がトラキア人の土地の東限を画しているが、北東方面ではドニエプル河とドニエステル河に挟まれた地域やボスポラ ス王国(クリミア半島) 内にもトラキア人は住んでおり、また南東方面 では北西アナトリアのビテュニアにも住んでいたのである。
南東ヨーロッパから北西アナトリアにいたる領域は、トラキア人が最 大の版図を持った時、B.C.5~3世紀の状態を示すものである。しかし一 部の地域では事情が異なる。それは古代ギリシアおよびエーゲ海島嶼部 で、そこでは先ギリシア (Pre-Hellenic) 人の存在が歴史や文学の作品に 触れられているのである。トラキア人の領域が度々変化するのは彼等の 複雑な民族構成 (ヘロドトスはインド人の次に複雑と述べている)のた めである。また近隣の民族との相互作用、あるいはトラキアの諸部族や 近縁の部族が北東から南西へ、南西から北東へと頻々と移動していたこ とも原因となっている。
民族形成の問題を過程 (プロセス) として捉える見地からすれば、こ のトラキア人の複雑な民族・文化組成、他の社会との接触、その移動は 民族起源に関連する現象である。何層にもわたる住居址の堆積や考古学 的遺物型式や装飾型式は、青銅器時代すなわちB.C.4千年紀末からB.C. 2千年紀末にかけてトラキア地方が一つの文化圏を形成していたことを 明らかにしている。B.C.2千年紀末の鉄器時代への移行も偶然的なもの ではない。地名学,人類学,神話学 (ホメロスやそれ以後のギリシア語 表現、ギリシア語で誌されたトラキア人の墓碑銘の中にトラキアの神の 名が残されている)によって、この民族文化を、長期間にわたって発展 してきた一つのものとして理解し得るのである。
従って民族形成のはじまりは青銅器文化成立の時期に求められる。し かしながら、その前史は耀かしい新石器時代文化および金石併用期の文 化の中にあり、ヴァルナ近傍の墓地遺跡から両者の統合された姿が発見 されている。ここにはアナトリア、ウクライナ、南東ヨーロッパ (カル パチアーバルカン)の諸民族・文化の要素が含まれていた。言いかえる とB.C. 6-5 千年紀のアナトリア文化、クルガン文化、ゴメルニツァ= カラノヴォ文化の諸要素が織り込まれ、新石器一金石併用器文化の最終 的かつ最高の発展期を迎えたのであった。
トラキアの民族文化はこの様な基礎の上に築かれたのである。