吉村 昭著、①「《作家のノート I》 戦艦武蔵ノート」(1985年文庫初版)、及び②「《作家のノート Ⅱ》 万年筆の旅」(1986年文庫初版)の2冊セット(文春文庫)です。状態は、2冊とも経年による強めのやけがありますが、それ以外は良好で通読には問題のない状態です(※気になる方はご遠慮いただければ幸いです)。送料はクリックポストで185円です(※厚さ2cm以下の文庫本は、重さ計1kgを超えない範囲で4冊程度まで同梱可能です)。
★内容:
①「《作家のノート I》 戦艦武蔵ノート」: 小説「戦艦武蔵」執筆の経緯を綿密にたどった取材日記の集大成として、小説本体と表裏一体をなす作品である。起工からフィリピン沖で沈むまでの6年間、国民から遮蔽され続けた「武蔵」。その巨艦の運命にまつわる数々の裏話、取材で出会ったさまざまな人たち、身近のことなどをおりまぜ、小説「戦艦武蔵」を書くまでの作家の内側が描かれる。
②「《作家のノート Ⅱ》 万年筆の旅」: 作家はいかに素材を発見し、いかなる取材によってそれに迫り、発酵させ、作品を完成させてゆくのか。小説には書かれなかったエピソードを多数披露した小説の裏側。
★著者、吉村 昭は1927年、東京生まれ。少年の頃から、肋膜炎や肺浸潤に罹病。1949年に胸郭成形手術を受け、左胸部の肋骨5本を失う。療養生活を経て1950年4月、新制学習院大学に入学。文芸部に所属し作家を志望するようになり、1952年、短篇を「學習院文藝」改称「赤繪」に発表。川端康成や梶井基次郎に傾倒する。同年、他の文芸部員と三島由紀夫に会い、改造社版「仮面の告白 その他」の署名入り単行本を贈られる。翌年、大学を除籍となる一方、北原節子(後年の小説家津村節子)と結婚。繊維関係の団体事務局に勤めながら、丹羽文雄や小田仁二郎の同人誌に短篇を発表。1958年、「青い骨」・「密会」で作家デビューを果たし、1959年に「鉄橋」、「貝殻」、続けて1962年に「透明標本」、「石の微笑」が芥川賞候補になるも受賞を果たせず、その代わり1965年に妻の津村節子が受賞した。その後、1966年に「星への旅」で太宰治賞。次いで長篇「戦艦武蔵」で作家的自立を果たし、1972年、「深海の使者」により文藝春秋読者賞。1973年、「戦艦武蔵」「関東大震災」など一連のドキュメント作品で菊池寛賞。1979年、「ふぉん・しいほるとの娘」で吉川英治文学賞。1984年、「冷い夏、熱い夏」で毎日芸術賞。1985年、「破獄」で讀賣文学賞および芸術選奨文部大臣賞。1987年、日本芸術院賞。1994年「天狗争乱」で大佛次郎賞。
2005年春、舌癌と宣告され、翌2006年2月には膵臓癌の手術を受けた。退院後も短篇の推敲を続けたが、新たな原稿依頼には応えられなかった。同年7月、東京の自宅で療養中、看病していた長女に「死ぬよ」と告げ、自ら点滴の管と首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、数時間後に逝去、享年79。
◎作風: 初期は死をテーマにした緻密な光景描写の短編小説が多い(「星への旅」など)。その後の歴史小説では、徹底的な取材と検証、調査を基にして、人物の主観的な感情表現を省き緻密に事実のみを描こうとするノンフィクション・スタイルに特徴がある。江戸時代から現代までの事象・人物を題材とし、「戦艦武蔵」などで戦記文学ジャンルも確立した。1980年頃からは「多くの証言者の高齢化による死」を理由に、近代以前の歴史に軸を移すようになったが、磯田光一が「彼ほど史実にこだわる作家は今後現れないだろう」と言うように、フィクションを極力避け、例えば、江戸時代のある土地の特定年月日における天気まで旅商人の日記から調査して盛り込むなど徹底している。こうした著作スタイルが、多くの読者に「どの吉村作品も面白い」と支持される理由の一つであろう。
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