*人間や社会の在りようを見つめ、ひたむきに描き続ける姿から、「魂の画家」 と評された 平野遼 の 水彩作品 『習作4』、1点もの 額装品 【真作保証】 です。 (万が一「真作」でなかった際には返品をお受け致します。)
作品の右側に 「トウーシュ」 「ナイフのパート」 と書かれています。
もしかすると、フランスの小説家バルベー・ドールヴィイの 「デ・トゥーシュの騎士」 をモティーフにした習作かもしれません。
*平野遼にお詳し言い方、平野遼ファンの皆様、作品を探されていた方、作品の価値がお判りの方方、ぜひこの機会にコレクションに加えてください。
・作家名:平野遼(ひらの りょう)1927-1992
・作品名:習作4
・技法:水彩
・シートサイズ:約38.5 cm×約27.0 cm
・額サイズ:約50.5 cm×約41.5 cm
・サイン:なし。作品の右側に「トウーシュ」「ナイフのパート」「習作4」と書かれています。
・制作年:??
・作品コンディション:イメージ部分は概ね良好ですが、裏側の四隅にテープ焼けがあります。
九州小倉を拠点に活動し、現代の苦悩を卓抜な筆力であらわした洋画家平野遼は、11月24日午後11時48分、心不全のため北九州市小倉北区の新小倉病院で死去した。享年65。昭和2(1927)年2月8日、大分県北海郡に生まれる。本名明。同8年、戸畑市沢見尋常小学校に入学。3年生の頃から技法書等により絵を独学する一方、通信教育で挿絵を学ぶ。同14年戸畑男子高等小学校を卒業。3歳で母を、同15年13歳で父をなくして同年より徴用工として働く。同20年除隊後戸畑に帰るが、同24年に上京。ポスター、似顔絵の制作、ウインドウ装飾等で生計を立てつつ、同24年第13回新制作派展に蝋画「やまびこ」で初入選。同26年第15回自由美術家協会展に「詩人」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同28年第17回同展に「白い家」「兄弟」を出品して優秀作家賞を受賞。この頃より糸園和三郎、小山田二郎、瀧口修造らの知遇を得る。同31年第20回自由美術家協会展に蝋画「夜」を出品して佳作賞、同32年第21回同展に水彩画「飛べない蝶」を出品して2年連続して佳作賞を受け、同33年同会会員に推される。同34年第13回日本アンデパンダン展に「爆発」を出品。同37年、第5回現代日本美術展に「修羅A」「修羅B」を出品するとともに、前年の第25回自由美術家協会展出品作「像」を第5回安井賞展に出品する。同39年9月、麻生三郎、糸園和三郎、森芳雄らと共に自由美術家協会を退会して同年10月主体美術協会を設立。以後、同展のほかに、現代日本美術展、安井賞展等に出品したが、同50年主体美術協会を退会して無所属となった。同53年6月ヨーロッパへ旅し、スイス、イタリア、オランダ、東欧等を訪れる。同54年7月には中央アジア、同年9月には、東独、チェコ、オーストリアへ旅行。その後も、トルコ、ギリシア、スペイン等を訪ね、晩年は海外への旅が多くなった。画業の始めから一貫して興味の中心は人間、特に自己の内面にあり、最初期には写実的具象画も描いたが、昭和30年代に抽象的作風へと移行、晩年にはデフォルメされた人体像による象徴的作風へと展開した。昭和61年12月、池田20世紀美術館で「平野遼の世界展」が翌年6月北九州市立美術館で「平野遼の世界展」が開かれており、画歴は同展図録に詳しい。作品集には『平野遼素描集』(大阪フォルム画廊 昭和47年)、『平野遼自選画集』(小学館 昭和52年)等がある。
(出典:『日本美術年鑑』)