柳家さん吉(本名・榑井昌夫)は、本年2月15日の朝に、
心不全により他界した。84歳で訃報は、死去から4日後の
同月19日に訃報は公表された。すでに、葬儀は近親者のみ
で執り行われ荼毘に伏されていた。さん吉は、日本テレビ人
気番組『笑点』の元大喜利メンバーであった。番組草創期の
出演なので、私のように60代以上の年寄りにしか番組記憶
はないだろう・・・。
さて、年賀状は、昭和47年(1972)正月に、演芸関係の
イベントを手がける業界関係者へ、柳家さん吉が宛てたもの
である。当時のさん吉は、『笑点』レギュラー出演をキッカ
ケに、あちこちから仕事の声がかかった。翌年、真打昇進し
ているが兄弟子の談志の援護射撃のおかげであろう。不特定
少数の手書きの文面が、多数向けの印刷賀状と変わった。表
の宛は、達筆な肉筆(黒インク)で書かれてある。
古い「池袋演芸場出演番組」は、40年近くは前のものだ。
トリの三遊亭歌奴(三代目)の演目を「錦のケサ」とだけ書
き入れたのは、学生時代の私が「袈裟」という漢字がわから
ず、カタカナで書いた恥ずかしい思い出のためである。ほか
にさん吉の名のある番組が見つからなかったので、御容赦の
ほど願いたい!
【役者・さん吉】
さん吉は、小林稔侍の時代劇初主演、テレビ東京の『お助
け同心が行く!』(1993)では、中村玉緒や田中健、相川恵
里・風見野枝(新人)と共演していた。北町奉行所の見廻り
同心・尾形左門次(稔侍)いきつけ料亭の店主・呂久平役を
好演じていた。ちなみに、この作品はDVDーBOX化され
現在発売されている。また、映画『異人たちの夏』(1988)
では、実在の落語家・桂米丸役をさん吉は演じている。彼の
持ち味は、現代ドラマよりも時代劇や昔気質の役柄にあるよ
うに思う。
【私的・柳家さん吉小伝】
本名は、榑井(くれい)昌夫。昭和13年(1938)、1月
18日、新潟県中蒲原郡村松町に生まれた。戦後、ラジオで
聴いた柳家小さん(五代目)の芸に惚れた。小さんが近隣の
長野市出身と知り親しみを感じていた。同32年に弟子入り
した。小さんは、剣道の心得がある少年を気に入った。前座
名は柳家小二三。その後、二ツ目・小三郎・さん吉(同37
年)と相成った。立川談志(当時は小ゑん)は、3つ年上の
同門先輩でよき兄貴分であった。「将来、柳家一門を引っ張
って行くのは俺だ」という気概にあふれ後輩の面倒みもよか
った。さん吉はいつも兄さんの話をそばでじっと聴いている
だけで満足していた。小ゑんのライバルの朝太が「志ん朝」、
全生が~円楽」真打昇進した時も、心穏やかでない兄さんの
悔しさをさん吉は、愚直なまでに受け止めた。小ゑんは、三
年後満を持して真打昇進し〝立川談志〟を襲名。二つ目の頃
から、小ゑんはマスコミに注目され、多方面の仕事をこなし
ていたが、真打昇進後は一世風靡の坂を駆け上り、テレビや
ラジオ、映画などでも引っ張り蛸・・・。
今や国民的な人気番組『笑点』は、談志が命名者! 談志
は、番組を仕切り売れ線の土台を築いたと言っても過言では
ない。談志は儲けたギャラで、銀座や赤坂で一流人物と縁を
重ね、卓越した人間外交により人脈を拡げた。さん吉は、談
志をよく気づかい地味な裏方をこなした。その甲斐あって同
44年3月、談志が『笑点』を降りる際に、同門の柳家かゑ
る(現・鈴々舎馬風)や三升家勝二とともに、さん吉を大喜
利のレギュラーにネジ込んだのは談志であった・・・。
その後、さん吉は、『アフタヌーンショー』(NET)や
『サントリー出前寄席』(文化放送)などのレギュラーを務
め、全国的に認知度を高めた。同48年に3月に、三升家勝
彌、橘家圓平、三遊亭さん生、吉原朝馬、柳家小のぶ、柳家
かゑる、三升家勝二、桂小益、林家枝二、さん吉の十人で真
打昇進を果たした。さん吉は、芸の力よりも、律義な人間力
を師匠小さんは認めていた。TVドラマ『お助け同心が行く
!』と、談志の援護もあって陽あたり良好な道を歩んだ。
しかし、それに嫉妬したり、妬む寄席仲間も少なくなった。
さん吉は、その白い眼を気にして、ちょい役だがいくつかの
時代劇ドラマの出演依頼を辞退した。また、寄席で時代劇や
業界の裏話をしてお客さんを喜ばせると「落語ができない」
と陰口を叩かれたそうだ。後年、家元の会をハネた後の打ち
上げで、あっしが「前に聞いた話ですが・・・」と、不運話
を報告した。心やさしい人が潰されるのも、芸人社会の一面
である。私が友人から頼まれた色紙を差し出すと「落語は好
き。落語家は嫌い。立川談志」と揮毫した・・・。
談志は、小さんから破門され、落語立川流を旗揚げ家元と
なった。相変わらず、兄さんは八面六臂の大活躍。テレビや
スポーツ紙で、破天荒な振舞いや毒舌に接するたびに、さん
吉は、コルゲンコーワのカエルのように、静かに微苦笑して
いたという。ある時、突然、家元から電話かかってきた。
「俺だ。よっ、元気か!?」と、受話器から、あの濁声がし
た。よもやま話を終えたあと、談志はやさしい声で「水臭え
じゃねえか。たまには連絡をよこせ」と言ったそうだ。
談志の意表を突く気配りに、さん吉は恐れ入谷の鬼子母神
の感動した! あっしが学生時代、池袋演芸場の昼席をハネた
あと「今晩の東横落語会楽しみにしてます」と、談志と告げ
ると「お前も東横へ行くなら一緒に行こう」と誘われた。電
車の中で談志は「やさしさとやさしげとはどう違うと思う」
と聞かれ、あっしはしどろもどろした。だが、偽悪家の家元
の陰徳のふるまいこそ「本当のやさしさ」だと言える!!
さん吉は、人を育てられる噺家でもなく、名人上手を極め
る噺家でも、名役者の器でもない。だが、他人様の喜ぶ顔が
見たくて、喜んで世話をやく好人物である。
何事も控え目で、分をわきまえる彼には野心はない。晩年
は、趣味人として自足的な生き方をした。好きなカメラでの
写真撮影、時代劇や落語本の読書、昔、蒐集したライターや
切手、テレカなどのコレクションを眺めては御満悦していた。
そして、何よりもわが子や孫たちとの家族団らんを楽しんだ。
昨年、家元没後十年の日曜日、昼過ぎに談志のドキュメン
タリーを、あっしは見ていた。ふと、談志のことを楽しそう
に高座で語っていた、さん吉を思い出した。彼もきっと家で、
この番組を見ているはずだ。それから、わずか三か月後、さ
ん吉の訃報をネットニュースで知った。あの世で家元の宴に、
さん吉は末席に着座し、ニコニコしているにちがいない。
【状態と発送】
賀状は50年近く前のものだが、状態は保存がよく
また「池袋演芸場出演番組」も、ともに「美品」であ
る。ただし、先にも書いたがトリの演目のみ手がきさ
れている。大切な落語家資料なので、厚紙で厳重
に保護して発送したい。送料は落札者負担に変更
し、スマート・レター180円も追加いたしました。