商品説明等々、長文で大変申し訳ございませんが、取引トラブルを避ける為、ご面倒かとは思いますが、最後までお読みください。
[取消・キャンセル]はお受け出来ません慎重にお考えの上で責任あるご入札を宜しくお願い致します。
取扱い商品の都合上 鑑定書(認定書・極め書き)の無い物は あくまでも当方の主観で説明していますので「参考説明」 程度にお考えください。また 当然の事として「使用感・経念感」はあります。
そういった「経年・使用」の時代経過の状態を気になさる方 また神経質な方は ご入札を控えて頂いた方が 宜しいかと存じますので入札をご遠慮 お願いします。
(尚 説明解釈等々の過ち 記述の誤り等々はご了承ください。「解釈の過ち・記述の誤り」等々があった際には「画像」での確認の方を優先してお考え下さい。)
サイズ約(cm)7・54×7・25 厚さ 切羽台 0・52 耳の所 0・46
(慎重に測っていますが あくまでも参考寸法とお考え下さい)
保存刀装具鑑定証 歳寒三友透鍔(無銘・赤坂)付・桐製桑縁落し込み鍔箱(布団入り)が付いています。
(商品説明の下部に「追加画像」を添付してありますので ご確認のうえ応札願います。)
この度の鍔(歳寒三友透)は当方が「日本美術刀剣保存協会」に「保存審査」を依頼して「保存刀装具鑑定証(無銘・赤坂)」を取得しましたので「正真保証」です。
(尚 当方では「鑑定審査物件」が「在銘」の時には「真・贋」を また「無銘」の時には「個銘・流派」が分かれば良いので 高額な鑑定料の「特別保存鑑定」には「鑑定」の提出依頼はしていません。)
この度の鍔は強靭に鍛錬した質の良い鉄地を肉厚手に仕立て「変り形」に造り込み切羽台から耳に向かって微細に肉を落とし、左右の櫃穴の大きさが違う「赤坂」特有の「小柄櫃・笄櫃」を大胆且つ繊細に開けて
「歳寒三友の図」を誠に耳周り力強く構図良く地透し、「松竹梅」に繊細な細い「毛彫」を趣良く施し仕立てた 「赤坂鍔」特徴的な構図で「松竹梅」の描写が見事で「品位」あり筋の通った赤坂鐔の「名鍔」で貴重です。
江戸中期頃の「時代物」として出来栄え保存状態共に「最上々」の「優鍔」です。
桐製落し込み鍔箱(布団入り)が付いています。
「赤坂鐔」とは、京都の道具屋 雁金屋彦兵衛が下絵を描いて鍔を作らせたとの諸説あるも赤坂派の初代・二代の忠正親子が江戸へ寛永頃移住し、尾張透と京透の合いの子の様な仕立てに工夫を加えて鐔を制作し、幕末頃まで栄えました。
初代は寛永~明暦・二代は明暦から延宝・三代は延宝から宝永の作鍔があり「古赤坂」と言われ肉取は「中高」で厚手の鍔が多い造りも見られる。四代目忠時の初期頃の厚手から鐔もや
や薄くなり、精巧な造込となった。
初代・二代の忠正親子が京都出身か尾張出身かは不明であるが、作風から尾張出身の忠正と京都出身の雁金屋彦兵衛が江戸で出合い、二者の結合で「赤坂鍔」が出現したとの諸説もあります。
「赤坂鐔」とはこの一門の職人たちの居住地の東京都港区の赤坂一帯から用いられた呼称で「赤坂透」は「尾張透・京透」と共に「三大透鍔」と言われ「武将や武士(もののふ)」に大いに好まれ繁栄した江戸期の鍔工を代表する一派です。
江戸中後期頃の鍔ですから当然の事として「使用感・経念感()」はありますが当方見る限り 問題になる傷みは無く「時代物」としては出来栄え保存状態共に最上々の状態ですが 時代を経た物である事をご理解のうえ応札願います。
( 詳しくは画像をよく確認のうえ応札願います。)
入札及び落札後のキャンセル・返品は基本的にお受け出来ません。画像を多数入れてありますので よく確認のうえ 疑問点は質問して 責任を持って応札をお願い致します。
送料は 全国¥600円(レターパックプラスにて発送) 宜しくお願いします。
詳しくは画像をよく確認のうえ 疑問点は質問にて。以上の記載内容・画像を御納得いただき お取引していただける方のご入札お待ちしております。
(2024年 9月 26日 15時 11分 追加)
この度の鍔は強靭に鍛錬した質の良い鉄地を肉厚手に仕立て「変り形」に造り込み切羽台から耳に向かって微細に肉を落とし、左右の櫃穴の大きさが違う「赤坂」特有の「小柄櫃・笄櫃」を大胆且つ繊細に開けて
「歳寒三友の図」を誠に耳周り力強く構図良く地透し、「松竹梅」に繊細な細い「毛彫」を趣良く施し仕立てた 「赤坂鍔」特徴的な構図で「松竹梅」の描写が見事で「品位」あり筋の通った赤坂鐔の「名鍔」で貴重です。
江戸中期頃の「時代物」として出来栄え保存状態共に「最上々」の「優鍔」です
「赤坂鐔」とは、京都の道具屋 雁金屋彦兵衛が下絵を描いて鍔を作らせたとの諸説あるも赤坂派の初代・二代の忠正親子が江戸へ寛永頃移住し、尾張透と京透の合いの子の様な仕立てに工夫を加えて鐔を制作し、幕末頃まで栄えました。
初代は寛永~明暦・二代は明暦から延宝・三代は延宝から宝永の作鍔があり「古赤坂」と言われ肉取は「中高」で厚手の鍔が多い造りも見られる。四代目忠時の初期頃の厚手から鐔もや
や薄くなり、精巧な造込となった。
初代・二代の忠正親子が京都出身か尾張出身かは不明であるが、作風から尾張出身の忠正と京都出身の雁金屋彦兵衛が江戸で出合い、二者の結合で「赤坂鍔」が出現したとの諸説もあります。 「赤坂鐔」とはこの一門の職人たちの居住地の東京都港区の赤坂一帯から用いられた呼称で「赤坂透」は「尾張透・京透」と共に「三大透鍔」と言われ「武将や武士(もののふ)」に大いに好まれ繁栄した江戸期の鍔工を代表する一派です。