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【尾形 光琳(おがた こうりん、万治元年〈1658年〉- 享保元年6月2日〈1716年7月20日〉)】
尾形光琳は1658(万治元)年、京都有数の呉服商・雁金屋の次男として生まれる。尾形乾山は5歳年下の弟。本阿弥光悦、武将の浅井長政とゆかりのある家系であり、光琳の幼年期に雁金屋は最盛期を迎える。幼少の頃より能を嗜み、書画にふれ、俵屋宗達に私淑した。30歳のときに父を亡くし遺産を相続するが、放蕩癖に加えて時局の変化に伴い家業が傾き、40歳を前にして画業で生計を立てていくことを決意する。その後の絵師としての活躍はめざましく、かねてより交流のあった二条綱平が有力なパトロンとなり、44歳のときには法橋に叙せられるに至る。金地背景に燕子花の同一モチーフを反復した《燕子花図屏風》(18世紀)は、法橋叙任直後に制作したもので、呉服商出身の光琳ならではの着想と言える。
1704(宝永元)年、銀座年寄に就任した商人の中村内蔵助を訪ねて江戸へ。内蔵助の援助により大名家向けに作品を制作し糊口をしのぐが、江戸の風土は光琳の肌には馴染まず、およそ5年の滞在をもって帰京する。この期間に、雪舟、雪村の水墨画に触れる機会を得、また狩野派の絵手本を模写するなどの収穫があった。帰京後は屏風絵などの大作を数多く手がけ、16(正徳6)年没。晩年の代表作《紅白梅図屏風》(18世紀)は、近年の科学調査を経て、いまなお素材、技法、主題が多くの人々のあいだで議論されており、光琳作品の巧妙さと尽きせぬ魅力を物語っている。宗達、光琳、そして抱一へ続く系譜を、今日では光琳の名の一字をもって「琳派」と称している。
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